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2010年08月07日(土)
mb_0807105911.jpg 240×427 29K62回目のポストマンライブが無事に終わりました。

場所は、大分県立情報科学高校。

小高い丘の上にある、素晴らしい眺望の高校でした。
依頼者は、高校の教諭であり野球部の監督でもある内川先生。

そう、横浜ベイスターズ内川聖一選手のお父さんです。

姫だるま後藤さんから始まる不思議な縁で舞い込んできた依頼でした。

この日8月6日は広島原爆投下の日。生徒の登校日で、毎年人権と平和に関しての講演を企画されているそう。

平和と人権・・・大丈夫?

幸い、いつものように歌と合わせてやっていいそうなんで安心。MCちょっと長めのライブってかんじ。


考えてみれば、ポストマンライブで高校行くのってあんまりない。

敷地内に訪れて体育館でやるの初めてかもしれない。
集まってくれた全校生徒は、男子六割女子四割くらいだろうか。小学校、中学校とは一味違う、大人びた表情だ。


今回、僕はいつもポストマンライブで伝えている「命」について、いつもより踏み込んで話そうと思った。

人権や平和を考えるとき、僕にとってそれは避けて通れないこと。


僕が人の命は死んでしまったらそれで終わりだと思っていたころから全く逆の考え方をするようになった今に至るまでのここ数年を改めて振り返るいい機会だと思った。

何から話そう…一曲目Howを歌い終わったあと考える。


情報科学・・理系・・・やっぱり科学者たちのことからだよな。


ウィリアム・クルックス、シャルル・リシェ、レイリー・ストラットの3人のノーベル賞科学者。


今から1世紀半前の世界の科学界をリードしていた人たち。


当時欧米を中心として、世間を騒がせていた、霊媒と呼ばれる者を通じて巻き起こされる不可思議な現象。

空中からノックの音が聞こえる。テーブルが浮き上がり足の一本が床を叩き符丁により伝えられるメッセージ。誰も触っていないアコーディオンが宙に浮き、流麗なメロディーが奏でられる。


空中に肘から先の手が現れ、用意された紙にペンでメッセージが書かれる。戦争で他界した息子が生前そのままの姿で現れ、遺族とコミュニケーションをとる。

その他種々雑多な常識では信じがたい現象に自らの誇りをかけて真っ向からぶつかっていった理性と常識の番人たち。


自分こそが、それらの現象のペテンをあばき、スピリチュアリズムと呼ばれている風潮を迷信とマジックの領域に押し返して見せると高らかに宣言した知性の牽引者たち。


そして数年に及ぶ彼らの真摯な戦いが始まった。

途中、彼らの検証によっていくつかの詐術は暴かれてゆく。


しかし、その他の殆どの現象は彼らがどれだけシビアな環境を造っても、相変わらず起きた。


詐術の余地をなくすために考えられるすべての策をろうしても、カーテンの向こうから物質化した霊は現れた。


それらは疑いの余地の全くない事実であると結論付ける以外に方法がなかった。


ここまで、体育館にびっしりと体育座りした多感な時期の生徒たちに話しながら思った。


学校の全校集会でしかも校長を始め先生がたや父兄の皆さんが集まるなか、喋る内容だろうか。


あまりにも逸脱してないか?


夏の怪談話してんじゃないかこいつ、ふざけた奴だと思われるんじゃないか。


でもはたと考えた。


彼らが自ら導きだした結論を、世間に向けて発表するときのプレッシャーはこんなものじゃなかったはずだ。


世界は、自分たちの尊敬する科学者がスピリチュアリズムのペテンをついに白日のもとに曝してくれると期待して待っている。


彼ら自身もそう自信をもって宣言したのだから。


世間の常識派の耳を疑うような結論を公表しなくてはならない。

この事は自分が築いてきた輝かしい功績を少なからず傷つけることになるだろう。


科学界のメインストリームから追放されるかもしれない。


彼らが感じた恐れや不安が追体験してるみたいに胸に迫ってきた。


いや、そんな恐れはもしかしたら微塵も感じなかったのかな。


私の科学者としての長い道のりは実験と検証の繰り返しであった。できうる限りの正確さと厳しい観察眼をもって、全ての物理現象に当たってきた。世間の評価はその繰り返しの中で勝手についてきたものに過ぎない。私の誇りを形づくる最も重要な要素は、自らのたどり着いた結論に背かないということだ。それだけがわたしの信念を支え、わたしを科学者たらしめてきた。


そう、思ったかもしれない。


「クルックス、おまえのくれたチャンピオンベルトだぜ。」


長くなりそうなので、しかももうすぐおおいた七夕祭りのリハなので、続く。

今日の一曲 あしたのジョー

2010年08月08日(日) 情報科学高校2
mb_0808152756.jpg 240×427 26K前回の続き

生徒たちは、以外にも熱心に聞いてくれていた。

始まるまで暑かった体育館に涼しい風が吹き始めた。
二曲目、風の呼び声。

別宮さん、逝かれてからもう四年になりますか、早いですね。また、あなたのことをこの生徒たちに話させてください。あなたが今でも、昔以上に元気で輝いていることが、この歌を歌う度に感じられます。この歌を作れて本当によかったです。

18世紀から世界中で頻発していた、科学者たちの研究対象になった派手な物理的な霊現象は段々と起きなくなってきた。

それに入れ替わるようにして始まったのが、以前地球上の様々な時代に生きていた霊たちからのメッセージだった。

派手な注目を集める見せ物から、静かなる核心、人類への福音。

それは、異世界からの明確な意図に基づいた演出だった。


僕らが永遠に生きていく存在ならば、どうだというのか。だから、今この瞬間をどう生きればいいのか。


世界中の全ての高級霊たちの答えは一つだった。

「自分以外の人のためにつくしなさい。」

愛がこの世界の全てだと。
シンプルこの上ないメッセージ。しかし、実践していくには時として困難が伴い、無限の段階がある。


もしも、彼らのメッセージの内容が、「山にこもって修行しなさい」だとか、「前世の自分を探す心の旅に出なさい」とか、「霊と交信できる霊能力を身に付けなさい」とかいうものだったなら、たぶん僕は全部放り出して、元の唯物論者に逆戻りしていたと思う。

なんだ、これもいっしょじゃねえか、下らないオカルトものと。と毒つきながら。

クルックスの努力も水の泡だ。

もちろんメッセージを受けるための霊媒は必要だ。しかし彼らは最初からその役割を担って生まれてくる。
そして人生のどこかのポイントで、自分の顕在意志とは無関係に突然にその能力を発揮しはじめる。そして、自らを神の道具として謙虚でストイックな人生を要求される。

永遠の命の道のりは魂の向上の道のり。他者に奉仕することが、霊を向上させる。

本当にそれだけでいいの?と問いかけると、どこからか声が聞こえる。

その「それだけ」を君はどれだけやれる?

考え込む。

自分の技術を磨いたり、知識や、知性を深めることだって、「向上」ではないか。問いかける。

君が身につけたそれら全ては、人の役に立った時初めて君の中で輝き始めないか?

黙る。


生徒たちは集中をきらさず聞いてくれていた。

三曲目。朝花。

瞬きの間に過ぎて行った この生を悔やむ曇りはあらず

晴れ渡った八代平野の田園地帯。

助手席から空を見上げた父が言った言葉。

「ああ、人生一瞬だった。」

きっと父はわかっていたんだろう、永遠の道のりなかの刹那の人生を。

その声に悲壮な響きは感じられなかった。

一人残らず僕ら生命は苦難や試練、それらに耐え、乗り越えるよろこびを経験するために生まれてくる。

人から見て、悲惨ななんの役にもたたないように見える人生にも、明確な意味がある。

それは、肉体をまとったこの地上でしか経験できない貴重な時間。

宝石よりも輝きわたるための大切な磨きの季節。

それを奪う権利は

誰にもない。

自分の命も含めて。

ああ、良かった。ようやく「平和と人権」に近づいてきた。

別府中央小学校肝だめしライブに行かなきゃなんないので、

つづく。

今日の一曲 心の色

2010年08月14日(土) 歸國
続き物の途中ですが、TBSドラマの「歸國」で、手紙を使っていただいたので、その話をしたいと思います。

倉本聰氏の作品は、「歌」が、本当に効果的に使われる。

BGMとしてではなく、歌詞が脚本の一部のように、メッセージとして使われる事が多い。

現代の東京に、戦争で没した、兵士たちが訪れるというテーマ。

大沢攸里さんが、僕の実名で、曲を紹介してくれた。

手紙を、いち早く気に入ってくれて、自分の番組で自ら朗読までしてくれた大沢さんに劇中で紹介していただいたのも、ある巡り合わせなんだろう。

死者は、死者ではない。

この日記でも、形を変え品を変え、書いているテーマ。

これが、もっとも端的に、直截的に結実したのが「手紙」だ。

受け取る人によって、感じ方は様々だと思うけど、それでもちろんいいんだけど、

僕の中には、常に揺るぎなく、人間の命の本質である「霊」が、テーマになっている。

未だ軍服を身にまとい、戦死した時の思いをそのまま引きずっている「英霊」が、自分の愛する人が生き続ける場所を訪れ、万感の思いで、見つめるシーンでこの曲が流れる。

「年老いた私がある日今までの私と違っていたとしても・・・」

年を取る事すらできないままにこの世を去った霊の悲しみに、この歌詞が重なる。そして、目の前の愛するひとは、年を重ね、自分の姿とはかけ離れた年格好となってしまっている。

シーンと歌詞の間の微妙な乖離が、想像だにしなかった化学反応をもたらす。

順調に年を重ね、肉体が衰え、このようなメッセージを、次の世代に残せる「幸せ」。

悲しい事ではないんだ、という歌詞が、いつもと違った響きかたで胸に迫って来た。

シルバー・バーチという霊は、1920年代から、霊媒のモーリス・バーバネルが他界する1980年の60年の永きにわたって霊言を伝え続けた。

第二次大戦中、世界中が、戦争の混乱状態にある時も、空襲の続くロンドンで、交霊会は続けられた。

人々の発する、憎しみ、悲しみ、恐怖、などのネガティブな想念に、通信が不可能になる寸前でのギリギリの作業だったそうだ。

戦争で、若くして肉体を離れる事を余儀なくされた霊が、霊的な真実を全く知らないままに大挙してこちらの世界に送られて来て、大変な混乱を招いているという内容の通信が、幾度となく送られて来た。

このドラマで、描かれていた英霊たちもその中の一部だったんだろう。

中には、この英霊たちのように、肉体を離れた時の無念さや、激情にとらわれたまま、新しい世界へ移行する事なく、地上に縛られ、長い間、戦いをやめようとしないもの、悲しみに、胸をふたぎ続けるものも少なからずいるのだと。

僕は、個人的に小栗旬さんと、八千草薫さんの、再会のシーンが胸に刺さった。

戦死したチェロ弾きの恋人が、すぐ傍らに来ている事に気付き、昔のようにピアノの前に座って「あなたは、そこにきているんでしょう?」と話しかける。

そうして、2人の対話が始まる。

「私も早くあなたのいる世界に行きたい、連れて行って欲しい。」と懇願する恋人に、軍服を着た霊はいう。

「私のいる場所は、天国でも地獄でもない、戦って死んだうかばれない仲間がせまく固まってさまよう世界だ、君をそんな場所に連れて行く事はできない」

そして、肉体の命が尽きる瞬間までこの世でしっかりと生きるようにと励ます。

僕たちは、常に、他界した近しい人や、常に自分を見守ってくれている霊たちから、こんな励ましを受けているのだ。1人の例外もなく。

だから、生きなくてはならない。神が、肉体という牢獄から離れる事を許すときまで。

そして、さまよう英霊たちは、永遠にさまよっているわけではない。

自分たちを縛り付けている想念から解放されるときが必ずやってくる。

その時初めて、自分のまわりに、様々な霊が救出にやって来てくれている事に気がつくのだ。

それは、かつて地上で愛し合った人であるかもしれない。肉親であるかもしれない。互いにがんばって来た仲間なのかもしれない。

霊の世界に、永遠の停滞はあり得ない。

前述のチェロ弾きの兵士も、いつか恋人が肉体から解放された時、その愛によってさまよいの世界から解放される。

愛に勝るものはない。と、すべての霊は言う。

僕もそう思う。

いつでも、結論は同じだ。

戦争の悲惨さを伝える時に、同時にそこにあった、そして悲惨さの試練に耐えた愛についても同じだけ伝えていければなと思う。

その愛が、目に見えるもの全てが滅びた後でさえも続いて行くと信じられるなら。

悲しい事ではないんだ。

と、胸をはって言える。

今日の一曲
手紙〜親愛なる子供たちへ〜






2010年08月18日(水)
mb_0818100017.jpg 240×427 29K情報科学高校2から続く。

僕らがもし、永遠の道のりを行く旅人だとするならば
自分で撒いた種の実りを、それが良きものであれ悪しき結実であれ摘み取りながら進歩の頂きを目指し進む巡礼者だとするならば、

同じ道を行く者として、同志として、全ての生命に深い共感が生まれないだろうか。

進歩を拒む自由はある。

でも、そこに永遠にとどまることはできない。いつか、必ず目が醒め同じ道を歩き出す。

自分で撒いた種は、自分で刈り取らなければならない。

イエスが教えた黄金律は、全ての命に分け隔てなく働く自然法則だと霊たちは伝える。

地球上において、何者も重力の法則から逃れられないのと同じ意味で、その因果律から逃れられるものはいない。

もし、そうだとするならば同情の余地のないように見える重大な罪を犯した他者へ、断罪の怒りをぶつける前に、憐れみの気持ちが芽生えはしないだろうか。

彼は、いつか自分の撒いた種を同じ形で刈り取る時が来る。

人間の作った法律によって裁かれようと裁かれまいと。

裁くのは、神ではない、自分自身だ。

そして、永遠の進歩の途上で、僕らも同じような罪を犯したのかもしれない。

私は、違う、と言うかも知れない。

僕はきっとやらかしていると思う。そんな、形を留めない記憶の予感がある。

そして、それを償うことを許されて、再びここに生まれてきた。

そんな気がする。

でも、もしそうだとしても、卑屈になる必要はない。
僕たちは各々に問題を抱え、それを克服するために、生まれて来たのだから。

僕たちはみんな、許された魂なのかもしれない。

地上で罪を償うことを許された。

キリスト教がいうように、イエスが僕らの罪を全部背負ってくれたからだとは思わない。

イエスは、ただ模範を示してくれただけだ。尊い模範を。

僕らは、自分たちの行いによってのみ罪を購える。


罪だとか悪だとかいう表現を、霊たちは好まない。

未熟な段階にある霊と呼ぶ。そして、自分自身もさらに進歩した霊から見れば、あなた方と同じ未熟者だと。

だから、今自分ができる精一杯の範囲で、人を許したいとおもう。僕らが寛大な心に許され、励ましてもらっているように。


許すことにも、愛することにも、時として苦しみが伴う。

「汝の敵を愛しなさい」

今の僕には無理だ。でも、そこにたどり着く前段階として。

「汝の敵を理解しようと努めなさい」

だったら、やれるかもしれない。

理解の向こう側には、共感への道しるべが立っている。

そして、それはいつか、愛することに繋がれるのかもしれない。

その様な愛に満ちた世界は必ず地上にやってくる、と全ての霊は約束する。


それがいつになるかは、僕たちの心がけと、行動しだいだと思う。

昔の僕は、そんなときは永遠にやってこないまま、いつか人間は自らの手で自らを滅ぼしてしまうだろうと思っていた。シニカルに。
今は、素直に信じられる。季節がうつろいゆくのと同じくらい自然に。


肉体に宿るが故の苦しみ、悲しみ。

全て肉体にいる間しか、体験できない。

肉体を離れたあとには、どんなに経験したくても、できないものなのだ。

それが、どれだけ貴重なものなのか、今の僕たちにはわからない。

その苦しみ、悲しみにどれだけ向き合えたかで、ぶつかっていけたかで、僕らの霊の世界への帰還が、どれだけ光に満ちたものになるかどうかが決まる。

そして、覚醒した気持ちで思い出す。

今回の人生で自らその苦しみ、悲しみを望み、それに耐えることを誓っていたことを。

その時、僕らの胸に沸き上がってくるのは、

後悔だろうか、達成感だろうか。

多分両方だろうな。

でも、少しでも後悔の方は減らしたいと思うから。

こんなことなら、きちんと最初から、計画立ててやってればよかったと

31日になって、膨大な量の宿題を前に途方にくれていた夏休み。

喉元過ぎて毎年同じことの繰り返しだったあの小学生時代の教訓は

いくつになってもあてはまる。

皆さん、今しか出来ない苦労や困難を喜んで下さいね。いつかきっと、必ず南風は吹き始めます。

じゃあ、最後にそんな曲をお届けします。

今日は最後まで僕の話を聞いてくれてありがとう。

「ろくぶんのいちのゆめたびびとぉぉ」

今日の一曲 2002ぃぃぃぃ!!

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