Message
2007年05月05日(土) もりおかおおいた
と、渡り歩く黄金週間。

3日は盛岡でごんした。

次の日に、藤村さんと、嬉野さんが盛岡入りしたそうで、まあまあ、たいへんだったでしょう。

諫山さんとのコラボもあって、たのしかったね。

あの、「Two of us」ってビートルズの曲、さとけん経由で諫山さんが歌える曲だって聞いていたので、それじゃそれやろうってことで、一生懸命練習してったら、それは彼女も同じだったみたい。僕がやりたい曲だって思っていて、一生懸命練習してきたって。それが、ステージ上でいざやるって時に発覚して、ダチョウ倶楽部上島聞いてねえよ状態に軽くなりましたが、


ま、いいか、レパートリー増えたし。ハモ、気持ちよかったし。

きてくれたひとありがとうございました。

明日、いつもの5時起き大分です。

予報では雨です。トキハの屋上に屋根はあるのだろうか。

リキリキ倉さん、めんもくやくじょってくださいね、ぜひ。

たのしみにしてます。

今日の一曲
夢の旅人 ウイングス

2007年05月06日(日) おおいたもりあがった
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リキリキ倉橋さん、がんばった。

が、降りを弱めるまでがせいいっぱいだった。

大分、トキハの屋上での、「大人のためのポップス講座公開録音」は、そぼ降る雨の中行われました。

私のライブも。

デパートの館内放送までやらせてもらいました。

「樋口さんの出身地の熊本の有名な山と言えば?1番あそ、2番いそ、3番うそ、さあどれでしょう」って・・・・・

マーサ、愛が溢れ過ぎ。お客さんへの。

前回のクイズで、個人的趣味に走ってドン引きされた結果をふまえての、捨て身の問題郡。

そして、クイズであられもなく愛を与え尽くしたあとは、今度は、聞く者の忍耐という寛容なる愛情を大量消費させる駄洒落小咄ギャグ。

膨大な愛の新陳代謝。

ラブ・メタボリックDJ DR.マーサ。

ほめているんですよ。ぼくは。

魚座の男には、愛が似合う。年々、深まって行く感じがする。

来月、またお世話になります。

今日の一曲
モナ・リザ  ナットキングコール




2007年05月11日(金) 出会うということ1
今度の、25日、札幌音楽処のイベントで、桜庭和くんと、池田聡さんとのジョイントライブをやる。

結構密に絡む予定なので、楽しみなんですが、
僕にとってはそれ以外の楽しみがある。

池田さんは、僕にとってこの仕事をするための人間関係の発端になってくれている人なのです。

いわば、人脈たすきリレーの第一走者。勝手に名付けさせていただくと。

それは本当に綱渡りのような、危うく、切れそうなリレーだったのです。このリレーがなければ、僕は東芝EMIからデビューすることもなく、その後、今の事務所に入ることもなく、どうでしょうの4人に出会うこともなく、もちろん、1/6を書くこともなく、皆さんに出会うこともなかったでしょう。今の妻にも子供にも。

「あそこの本屋で、あの時、たまたまあの就職情報誌買わなかったら、今の仕事してないな。だから君に出会ったのは奇跡なのさ。乾杯。」

私の話も、このような、主観に偏った手前味噌奇跡の範疇に属します。そりゃ、物事みんなそうだろうって突っ込みを甘受します。選択されなかった無数の人生のうちのたまたまそれだろ的な。

しかし、それを差し引いても、ちょっとおもろいので、書きますね。

池田さんには今度初めてお会いするのですが、それ以外にも、と言うか、これに平行して、様々な伏線が僕の知らないところで張り巡らされていたのでした。

約20年前。

どこから描けばいいんだろう。

とあるアーチストのボーヤをやっている、松下(仮名25)は、その日のライブの器材を積み込んだまま、自宅に帰るため、湘南海岸沿いの357号線を車で西に向かって走っていた。

松下は、ドラマーであり、自分のバンドもやっていた。最近ギターが抜けたばっかりだった。新しいメンバーを探さなければ、次のライブも近い。色んな知り合いを頭に思い浮かべながら、ルームミラーで車がいないことを確認しつつ左の車線に車線変更した瞬間、

ガシャン。左後ろに衝撃があった。見ると、白いホンダプレリュードが右フェンダーを食い込ませている。

あわててハザードを出し、路肩に止まった。器材は無事だ。よかった。

「お前、ライトつけてなかっただろう。」弱気に出たら、不利になる。こっちが寄せたんだから。そう思った松下は、そう言いながらプレリュードの運転者に詰め寄った。

運転者は、小島(仮名)という、24才の男だった。「つけてたよ、お前こそなんだよいきなり寄せてきやがって。」

車は見えなかっただのなんだのと、しばらく口論を続けていて、ふと松下がプレリュードの後部座席を見ると、黒いギターケースが積んであるのが目に入った。

「・・・お前ギター弾くの?」と聞くと、

「ああ、そっちも器材積んでんじゃん。」という返事。

小島は、最近入っていたバンドをやめたばっかりで、これからどうしようかと身の振り方を考えていたんだそう。色々話すうちに2人とも盛り上がってきた。 

「ちょっとさ、これから俺んちこない?」と、小島が松下を誘い、車はへこませたまま2人で小島の家に向かった。


久しぶりに続く・・・

今日の一曲
Heart of rock'n roll ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース

2007年05月12日(土) 出会うということ2
前回に続く。

小島の家で、音楽のことを話しながら、小島が以前出た嬬恋のコンテストの映像を見ていたら、その前に出演したバンドのベースが、松下の後輩の安藤(仮名)だった。

全国大会である。神奈川県エリアではなくて。しかも、このすぐ近所に住んでるらしい。

あまりの偶然に、小島は、ここ数ヶ月の出来事を思い出した。

半年ぐらい前、部屋でギターを弾いていると、目の前の空中に、ぼんやり光る白いものが浮かんでた。
最初ホコリかなんかだと思い、めをこすったが無くならない。

その光るものは、ふわふわと部屋を横切り、しばらくして消えた。

次の日、新宿の街を歩いていたら、突然男の占い師に呼び止められた。

「そこのあなた、お金はとらないから聞きなさい。あなたの身の回りに、いいことか悪いことかはわからないけど、いくつかの大きな出来事が起こります。今までの自分を一変させるようなことです。注意していなさい。」

それだけ言うと、占い師は離れて行った。

その一週間後、小島は大事故に遭う。プレリュードは大破し、原形をとどめないほどだった。つきあっていた彼女を乗せていたのだが、2人とも全くの無傷だった。シートベルト着用義務化の前の話で、2人ともしていなかった。気がつくと何故か助手席で、小島が下になり、彼女を上に2人ともきちんと座る姿勢だった。どうしてそうなったのかわからない。しかし2人ともかすり傷一つ負ってなかった。

相手に、過失があり、白のプレリュードは新車になった。

そして、その数ヶ月後に今日の事故だ。新車の右フェンダーはまたしてもへこんだ。でも、そんなにショックじゃない。それよりも、新宿で占い師に言われた言葉が、今頃になって気になりはじめた。

何かの予兆だろうか。今までの自分を一変させるような。

「なあ、ベースに安藤誘ってみようか。あいつ今何やってかな。」松下は、もうすっかり新しいバンドを組むつもりでいる。

「ああ、いいんじゃない。こいつうまいし、ルックスもいいじゃん。あとは、ヴォーカルだなあ。」

松下と小島は2人して、自分たちの知っている歌の歌える人間を思い出して行った。しかし、だいたいみんなどこかのバンドに所属している。ヴォーカルはバンドの顔だし、掛け持ちでっていうのは避けたいなあ。誰かいねえかなあ・・・・

ふと、小島の脳裡に、一年前に入っていたソウルバンドで、一回だけ一緒に箱バンの仕事をやったヴォーカルのことが浮かんだ。そいつは、小島が加入するのと入れ違いにやめて行ったので、そのときしか会っていない。歌はまあまあだったけど、それより、ステージアクションが変なやつだったなあ、妙に印象に残る。
あいつ金なくて、ステージ衣装買えなくて、俺の普段着貸してやって、それでステージ立ってたんだ確か。あいつ、面白いかもな。ええと、確か練馬の方住んでるって言ってたっけ。名前なんて言ったっけか。みんなから「ろー」って呼ばれてたなあ。・・・・ヒグチ、そう樋口だ。

でも、名前しかわからない。

続く。

今日の一曲
Some Like It Hot Power Station

2007年05月13日(日) 出会うということ3
前回からつづく。

話は、小島と松下が事故を起こす1年半ほど前にさかのぼる。

樋口了一(23)は、いつものようにバイト先の池袋の無国籍居酒屋「300B」の閉店後、厨房の掃除をやっていた。

「樋口、電話。」店長が呼ぶ。まだ、携帯も、インターネットもない時代である。

「もしもし。」店のピンク電話の受話器を取った。

「ああ、どうも、僕、倉沢っていうんだけど、池田君が君を紹介してくれたんだけどさ。」

「は?」話がさっぱり見えない。

「池田聡だよ。知ってるでしょ?」

「・・・ああ、はい。歌手のですか。」

当時、池田聡と言えば、デビュー曲の「モノクローム・ヴィーナス」が大ヒットして、「ベストテン」などの、歌番組にもよく登場していたし、武道館でライブをやったりと、誰もが知っている存在だった。

でも、一度もあったこともない。ミュージシャン志望のただのフリーターの自分とは何の接点もない。

有名人の名前を語って、だまそうっていうのだろうかと、警戒しながら話を聞く。

「君、最近ヤクルトホールで、ライブやったでしょ。それをね、後輩の日大のバンドが出るっていうんで、池田君が見に行ってたんだよ。それで、立教のバンドで歌ってる君を見て、面白いやつがいるっていうんで、僕に教えてくれたんだ。」

確かに、つい二週間ぐらい前、関東七大学バンド連盟のライブが終わったばっかりだった、立教の代表で、「ロイヤル・アイランダーズ」という名前で、ライブに出た。樋口は、その頃、P−Funkをはじめとした、過激なステージングのブラックミュージックに傾倒していて、目立ってなんぼの精神で、ライブを組み立てていた。いかに他のバンドから浮くかだけしか考えていなかった。やる曲の歌詞など全く覚えず、めくらめっぽうに暴れ回っていた。

それが、あの落ち着いた音楽性の池田聡の目に留まる?どう考えても不自然だったが、事実関係は間違っていない。当時、池田聡が見に行っていたという、日大の「フラワー・レイ」というバンドでは、中西圭三という2年生がバックコーラスをやっていた。

「今俺さ、Mojoっていうブラックのバンドやってんだけどさ、池田君とは昔からつきあいあるんだ。今ヴォーカルがいなくてね。それで、池田君の話を頼りに方々探しまわって、君のバイト先にやっとたどり着いたんだよ。」

インターネットで、名前で検索すれば、誰もが気軽にブログでコンタクト先を開示している今から考えたら、気の遠くなるような捜索が行われたであろうことは容易に想像できる。池田聡がライブで見たっていう手がかりしかないのだから。

そこまで懸命に探すほどに、僕に興味を持ってくれているということは、池田聡本人もこの人に強く勧めてくれたんだろう。

どっちにしても、今フリーで、自分のバンドもない。会うだけ会ってみるか。

数日後、樋口は、指定された新大久保のスタジオに向かった。

その「Mojo」というバンドは、平均年齢33、4才のベテランバンドだった。当時樋口が目指していた、音楽性とは違っていたが、自分より長くブラックミュージックに関わっている人たちとやることで、なんか学ぶところがあるかもしれないという計算もあって、とりあえず加入することにした。それに、色んなことに首を突っ込んでおくというのは無駄にはならないという直感めいたものもあった。

そのバンドでのメインの活動は、いわゆる箱バンだった。表現の場としての赤字覚悟のライブ活動ではなくて、純粋にギャラをもらうための、仕事である。

最初の「現場」は、渋谷のヘッドパワーと言う店だった。

ライブハウスではない。ライブバーでもない。名前を付けるとすれば、ステージ付き居酒屋だった。

広いホールに、お客が、座敷スタイルで靴を脱いで、各テーブルで盛り上がっている。その隅に、フロアーと高さが同じのステージ風スペースがしつらえてあって、そこで、40分2ステージのライブをやる。

はっきり言って、誰も聴いていない。

こっちが、ジェフリー・オズボーンかなんかのバラードを熱唱していると、「すいませーん、おあいそー。」と、目の前30センチのところをサラリーマンの集団が通り過ぎて行く。

その日は、樋口さんが出るっていうんで、立教の軽音楽部の後輩たちが、大勢で見に来てくれた。しかしその後輩たちの目に映ったのは、あの、ステージでは何をするかわからないエキセントリックな樋口ではなく、銀ラメの衣装を着て、営業バンド然とおとなしく、誰も聴いてない歌を歌う姿だった。

「さらば青春の光」の、スティング演じるモッズのカリスマの本当の姿を見てしまった主人公のような顔をして、後輩たちは帰って行った。

その日の仕事が終わると結構落ち込んだ。これが現実だ。自分はまだ何者でもないということを思い知らされた。でも、やめようとは思わなかった。とりあえず一年はやってみようと思った。

バンドの人たちはみんないい人たちだったけれど、そんな仕事を繰り返しながら一年が過ぎた。

やっぱり、自分のバンドを組もう。そう思った樋口は、六本木のソウル・バーの仕事を最後にバンドを抜けることを決めた。

その少し前に、ギターが抜けていて、その仕事から新しいギターが加入することになっていた。

本番直前のリハで、初めて紹介された。

「こんちはー。」そいつは小島といった。いかにも軽そうなボンボン系のノリのやつで、会った瞬間、こいつとは合わないなと感じた。まあ、いいか。どうせもうオレやめるし。どうでもいいや。樋口はそう思いながら、握手をした。小島は、白いプレリュードに乗っていた。自分と同い年で、新車に乗ってるなんて、きっと親のすねかじりに違いない、立教にもいっぱいいたな、こういうやつら。

貧困が、樋口の心を卑屈にねじ曲げていた。

実際、当時の樋口の経済状態は最悪で、ステージ衣装も買えないほどだった。その日の六本木の仕事も、着の身着のままでワンステージめを終えたら、オーナーから、なんだあの汚いヴォーカルはとクレームが来た。今までお世話になった、バンマスの倉沢さんに迷惑をかけるのはまずいと思ったけれど、服がない。どうしようかと悩んでいたら、

「俺の服着る?」と、小島が、着てきた普段着を差し出した。ステージ衣装で十分通用する。

樋口の、小島への第一印象の流れからすると、ますますムカつくやつっていう方向に傾きそうなシチュエーションだと思うかもしれない、しかし、樋口はそのとき、服を差し出した小島の顔を見て、自分の印象が間違っていたことに気がついた。

こいつは、いいやつだ、と直感で思った。

2ステージめは、客からのジェームスブラウンの曲のリクエストに即座に答えるという緊張感に満ちたものだった。自分にとってはこのバンドの最後だという思いもあって、樋口はがんばった。

小島の普段着を着て。

つづく

今日の一曲
Jungle Boogie Kool&The Gang

2007年05月14日(月) 出会うということ4
樋口がMojoをやめてから、一年が過ぎた。

やめてすぐに大学時代の後輩を中心にメンバーを集め、「ハッスル・アイランダーズ」と言うバンドを組んで、コンテストや、様々なオーディションに参加した。

ベスト・ヴォーカルを受賞したり、審査員特別賞を取ったりと、それなりに成果はあった。「君たち、ポリドールのディレクターがえらく気に入ってたよ」とか、主催者の人から気を持たせるようなことをいわれるのに、1週間経とうが、2週間経とうが、誰からもお呼びがかからない。といったことを繰り返していた。

そうこうしているうちに、メンバーの就職活動が始まった。

大学生バンドの宿命でもある、期間限定デビューへの夢。イチゴ白書をもう一度。メンバーの一人は、彼女が妊娠して、3年生で結婚した。

大学をやめてしまっている樋口に就職という選択肢はなかった。基本的に強力なリーダーシップでバンドを引っ張って行くような才能など全く持ち合わせていなかった樋口は、メンバーを引き止める術もないままに、ただのフリーターに逆戻りしようとしていた。もう25才になろうとしていた。

世間では、イカ天ブームが始まっていた。

「樋口、電話。」ある夜、店長の声が閉店後の厨房に響いた。デジャブ。

「もしもし」

「ああ、やっと見つけた。ろーだろ?久しぶり。俺、覚えてる?小島。」

ここのピンク電話から聞こえてくる声の主は、いつでも俺のことを懸命に探している。

「おお、小島かあ、ひさしぶり。」と言いながら、必死で記憶をリロードする。ギター、プレリュード、普段着衣装。

「大変だったんだよ。お前、連絡先変わっただろ。なんかのコンテストで賞とったっていうのはきいてたから、そこら中のコンテストの受賞者名簿調べてさ、やっと見つけてさ、んで、連絡先バイト先にしてただろ。それでわかったんだよ。倉沢さん?ああ、俺もあのバンドやめちゃったんだ。」

「そうか・・・」

「あのさあ、俺、新しくバンド始めようと思ってんだけどさあ。ろーやんない?」

「え?」

「この間、俺事故ってさあ、その事故ったやつがドラムやっててさあ、そんでそいつとバンドやろうと思ってんだあ。」

「なんだそれ?」

「まあ、詳しい話は会ってからしようよ、そいつ松下って言うんだけどさあ、結構いいドラムたたくんだよ。連れて行くからさあ。」

樋口は、不思議な気分のまま電話を切った。事故ったやつとバンドやる?ドラマじゃあるまいし。だいたい、小島は俺と一回ライブやっただけじゃん。それで、なんでそこまで苦労して探し出してまで、バンドに誘ってくれるんだろう?わからないことだらけだった。

数日後、寝坊で約束の時間に1時間遅刻して、待ち合わせ場所の渋谷のルノアールに向かった。

つづく

今日の一曲
Set them Free Sting

2007年05月15日(火) 出会うということ5

新しいバンドは、「BUDS」と名付けられた。

メンバーは、ヴォーカル樋口、ギター小島、ベース安藤、ドラム松下の4人編成。まさに不思議な縁で出会った4人だった。

曲は、主に樋口が書き、それを全員でヘッドアレンジしていくという基本スタイルに自然と定着した。樋口にとってみれば、初めて、自分のオリジナルをじっくりバンドで煮詰めて行くという、以前からの望みがやっと実現したこともあって、曲を量産した。

松下には、以前から師匠として付いていたスタジオ・ミュージシャンのT氏がいた。このT氏が、とある楽器を開発した。バブル日本の見境のなさを象徴するような出来事であるとも言えるが、この楽器が面白いと、とある土地持ちの資産6000億という倉庫会社がすぐにスポンサーに付いた。その楽器の海外プロモーションという形で、このBUDSは半年間の渡米を果たす。それに関しては、ここでは書ききれないので、別の機会に譲る。

このT氏の開発した楽器を売るためと、その楽器を使うBUDSを売るために、前述の倉庫会社がスポンサーとなって会社が設立された。

社長には、T氏の兄が就任した。

だんだん、話がきな臭くなってきた。

なんでだろう。いつもいつも。純粋に音楽をやるという最初の目的から少しずつずれて行く。その原因の根本は自分の心の姿勢にあるということに気がつくのはもっとあとになってからだった。その時は、お金という強力なエネルギーの濁流の中にいて、きっとこれは自分たちにとってチャンスに違いないという錯覚を4人とも信じ込もうとしていた。

その事務所からは、固定給が出た。生まれて初めて、ミュージシャンとしての自分たちに投資するという形で、お金が支払われた。とっぱらいのギャラ以外で、時給ではない報酬をもらったのは生まれて初めてだった。

4人ともが浮き足立っていた。自分たちがミュージシャンとして食えているという錯覚に陥っていた。そして、彼らの感じていたきな臭い予感は、すこしずつ現実のものとなっていった。会社の方針が、音楽事務所から、スタジオ経営に移行してきたのだ。スポンサーの倉庫会社が大森に持っていたリハーサルスタジオを、完全プロ・ユースのレコーディングスタジオに改造して、運営して行こうということだった。何不自由なくおもちゃを買い与えられる飽きっぽい子供のように、その会社の経営目的は、情熱なき資金という後ろ盾に支えられて、次から次へと移ろって行った。

アメリカから帰国してしばらくは、自由にバンド活動を許されていたのだが、そのうち、「他の社員の手前、示しが付かないから、とりあえず毎日会社に来てくれないか。」と言われた。固定給をもらっている手前、いやとは言えない。毎日10時に会社に通いはじめた。

すると、今度は、「私服で、うろうろされてると、取引先の客の印象が悪いので、吊るしでも何でもいいから、スーツ着てきてくれないか。」と言われた。彼らは従った。

そして、ある日、会社に行くと、彼ら4人の名刺ができていた。樋口は手渡された自分の名刺をみた。

宣伝、広告 樋口了一と書いてあった。スタジオの宣伝担当ということだった。

バンドのメンバーはもう完全におかしいということはわかっていたが、松下を始めみんなが会社の意向に従った。みんな思っていることは同じだった。当時もう彼らは20代の後半に差し掛かってきていた。この会社をやめて、またもとのフリーター生活に戻るのが怖かったのだ。プロ・ユースのスタジオ経営をするということは、プロの世界に近いところにいるということで、その場所をキープしながら、給料をもらえて、しかも、ある程度音楽をやる時間も与えられている。考えようによってはこんないい条件はないではないかと自分に言い聞かせていた。

しかし、樋口の我慢は、一年が限界だった。自分の意志で、スーツを着て就職すると腹をくくったのであれば納得できるが、もともとミュージシャンとして入った会社で、なし崩し的に名刺作らされて働いている。もうバンドも会社も全てが嫌になってきた。こんな生活を続けて行くなら、元のフリーターに戻って一から音楽だけに向き合っていきたいと考えるようになった。同じ考えだったベースの安藤とともに、樋口は会社を辞めた。会社的に重要な役割を担いはじめていた松下と、小島は、残ることになった。ここで、バンドは事実上解散した。

会社を辞めるとき、松下が樋口に言った。「俺さ、おまえのCD絶対世の中に出したいんだ。待っててくれよ。」

つづく。

今日の一曲
RHYTHMNATION  Janet Jackson

2007年05月16日(水) 出会うということ6
会社を辞めた樋口は、すぐに大学時代の後輩が学生時代にバイトをやっていた、佐川物流サービスというところを紹介してもらって働きはじめた。彼は、もう27歳になっていた。音楽で食って行く見通しもつても自信も何もなかった。でも、心は久しぶりに青空を見たようだった。

そこで初めて、大学をやめてからの自分の活動を振り返ってみた。そこには一貫した姿勢というものがなかった。いつも、地道なプロセスを踏まずなんとか近道をしてデビューにこぎつけたいという、浅はかな願望ばかりが先に立っていた。それは、ある時はコンテストであり、オーディションであり、お金を持ってるスポンサーであり、固定給をくれる事務所であった。

学生時代から、頑ななバンド指向で、ソロデビューなど考えてもいなかったが、そのバンド指向でさえも、自分の依存体質から出ているような気がしてきた。その証拠に、何が何でもこのバンドで、地道にライブをやって少しづつ客を増やしてっていうようなことを一度も考えたことがなかったのだ。

ここで初めて、樋口は、バンド指向という執着を捨てた。かといって、ソロアーティスト指向でもない。言ってみれば、楽曲指向だった。

とにかく、誰が聴いても納得するような文句なしのいい曲を作ることだけを考えようと思った。それで自分がデビューできるとかできないとかは置いといて、とりあえずそのことだけに専念しようと思った。邦楽の歌詞を真剣に聴くようになったのもこの頃からだった。

しばらくして、大森のレコーディングスタジオが完成した。名前は、樋口が出した「クラブソナタ」という案を、ひっくり返して、「ソナタクラブ」となった。スポンサーの倉庫会社が所有していたクルーザーの名前が「ソナタ号」といい、「ソナタ」という名前を入れなければならなかったのだ。

松下と、小島はさっそくスタジオの営業に、レコード会社を回りはじめた。

レコード会社を回るうちに、各会社の制作ディレクターと顔見知りになって行った。

ある日、松下は、いつものように東芝EMI4階フロアーのA&R第三本部の三宅彰主任プロデューサーを訪ねた。三宅プロデューサーは、スタジオの営業を通じて知り合ったディレクターの中でも、特にスタジオをよく使ってくれる1人だった。

「三宅さん、またお願いしますよ。安くさせてもらいますから。」

「君んとこ遠いからなあ。あと、商店街に面しててさあ、アーティストが入りにくいんだよなあ。」歯に衣着せぬいつもの三宅節が始まる。

「いや、だからその分は安くしますから。今月レコーディングの予定とかはないっすか?」

「わかったよ。それよりさ、松下君、君の知り合いで男のヴォーカルでいいやついないかな。」と、突然三宅プロデューサーが言った。

「え?デビューさせるんですか?アーティストとしてですか?」

「うん、そのつもりで探してるんだけど。」

「知ってますよ!知ってます!面白いの知ってます!」松下は、即座に答えた。

「樋口っていうやつなんですけど。」

つづく。


今日の一曲
One more kiss  レベッカ

2007年05月17日(木) 出会うということ7
突然の松下からの電話に、樋口は、戸惑った。

東芝の、矢沢永吉担当のプロデューサーに紹介するから、一曲自信作のデモテープをくれという話だった。

自信作。何がいいだろう。

今までだったら、こんな時は派手なアップテンポの曲を渡していた。目立つように。

でも、今回はバラードにしよう、と思った。

「dedication」という曲が思い浮かんだ。素直なバラードだった。特に奇をてらったわけでもなんでもない、正直な曲だった。

大学時代の仲間に手伝ってもらい、オケを作って、知り合いのプライベートスタジオで歌を録った。歌入れの日、40度近い熱があった。

環七の、丸山陸橋を北に超えてすぐの右カーブの路肩で、松下にテープを渡した。なんか、ヤバい取引でもやってるみたいな気がした。

それからしばらく、音沙汰はなかった。

正直、樋口は期待してなかった。今まで何度、このような一見魅力的な話に心躍らされ裏切られてきただろうか。度重なる失望の経験が、樋口を自己防衛型のペシミストにしてしまっていた。

「俺さ、おまえのCD絶対世の中に出したいんだ。待っててくれよ。」

俺が会社辞める時の松下のあの言葉は、その場を取り繕うための方便じゃなかったんだなあ。あいつはちゃんと行動してくれたんだ。それだけでもいいじゃないか。ありがたいよな。でもまだまだいい曲作れてないもんな俺。がんばんなきゃな。

再びフリーターに戻った時から、樋口は、音楽で食えなかった時のことを考えはじめていた。大学も辞めている樋口にとって、資格を取るというのが、最も現実的な選択だった。バブルにかげりが見え始めていたとはいえ、まだまだ不動産神話は続いており、宅建の資格は人気だった。本屋で見つけた「これだけ宅建」という参考書だけを3回読んで試験を受けたら受かった。あれ、もしかしておれ、法律関係才能あんのかなと、調子に乗って、今度は司法書士の資格の参考書を10冊ぐらい買い込んで、机に並べた。

「刑法」を読んでいたら、電話が鳴った。松下だった。

「三宅さんが、もっと他の曲聴きたいっていうから、今度ソナタで4曲ぐらいデモ録るから、用意しといてくれ。」

「ええ?今勉強してんだよなおれ。」

「バカ、何いってんだよ、三宅さん気に入ってんだぞこないだのあの曲。ここでがんばんなきゃいつがんばんだよ。」

松下に尻を叩かれながら、ソナタクラブで、リズムマシンと、アコギだけの簡素な4曲入りデモテープを作った。

そこから一週間ぐらい過ぎて再び松下から電話が入った。

「三宅さんが東芝に来て欲しいそうだ。詞が弱いんだってよ。なので、今考えてんのは松井五郎に半分ぐらい任せて、後はお前を鍛えるってさ。アルバムの発売は、今のところ一年後の9月ぐらいで、7月にデビューシングルというタイムスケジュールでいるそうだ。それまで曲をためるからいっぱい曲作れってよ。おめでとう、ろー。」

「えええ?勉強したいんだよなあ俺。」とは冗談にも言えなかった。さすがに。

今日の一曲
時間よ止まれ  YAZAWA

2007年05月18日(金) 出会うということ8

その後、僕が実際に「いまでも」でデビューしたのは、2年後の1993年だった。その間三宅さんと録ったデモは40曲ぐらいにもなるだろうか。

ここから先も、危うい人脈たすきリレーは続いて行くんですが、それは半ば公になっているので、省略させていただきます。あーなってこーなってそうなったんですよ。

こんなに長くなってしまった。池田聡さんとの関わりをちょっと書こうと思っただけなのに、全てが、生き物のように有機的に絡み合い、どのエピソードも割愛することができなかった。

今回、この業界に残っている人に限って本名で書かせてもらいました。ほんとはみんな本名で書きたかった。でも無断でってわけには行かない、やっぱり。

 僕以外のBUDSのメンバー3人は、今はもうこの音楽業界からは離れている。ソナタクラブも、今はもうない。この間行ってみたら、バーミアンになってた。噂によると、例の倉庫会社も今は存在しないそうだ。6000億は泡と消えた。主任プロデューサーだった三宅さんは、その後ご存知の通り宇多田ヒカルを発掘し、今やヴァージンレコード、フゼイミュージックカンパニーのプレジデントだ。しゃっちょさんだ。

今回、8回にわたって僕が書きたかったことは・・・・なんだろう?

一つ浮かんでる言葉は、「寄木細工」。

人は誰でも、自分以外の人たちが大勢で編み上げた繊細な寄木細工の上に乗っけてもらってるってこと。

どの微細な一本が欠けても、その世界は成立しない。

一話目から思い出して欲しい。もしも、20年前のあの夜、松下が小島のプレリュードを見落とさず、普通に車線変更していたら。

僕は1/6の夢旅人を書いていない。確実に。

もしも、池田聡さんが、ヤクルトホールでの僕のライブを見ることなく、帰っていたら。

僕は、今の家族に出会っていない。確実に。

もしも、松下の師匠だったT氏があの楽器の開発をしなかったら。

僕はロックオン・カンパニーの所属アーティストにはなっていない。RICKYさんにもTさんにも出会ってない。確実に。

もしも、あの夜の六本木で、小島の普段着を借りてライブをやる前に辞めていたら。

僕は、どうでしょう祭りでみんなと大合唱してない。確実に。

一見すると、まるで無関係に見える出来事が、必要不可欠な宿命的な糸で固く結ばれあっている。

考えると、恐ろしい。けれど、それ以上に愛おしい。

もちろん、選択されなかった無数の組み合わせの人生を引き合いに出せば、騒ぐほどのことじゃないのかもしれない。

でも、僕の愛する人たちは確実に今ここに、このように僕と関わって存在してくれている。その人たちと出会ったことを無数の偶然の選択肢の一つに過ぎないととらえることは僕にはできない。そこには、出会ってくれたことに対するひたすらの感謝の気持ちしかない。

今回、僕の二十代を駆け足で書いたことで、単に記憶としてしまってあったモノクロームの出来事たちが、たった今経験しているかのようにリアルによみがえってきた。そしてその経験は、43才の僕のフィルターを通すことで、あの頃は感じとることができなかった、関わった人たちの優しさや、情熱を、深い色彩として新しく体験することができた。

もちろん、これは僕に限ったことじゃない。みんなも試しに自分の人生の、ある一時期を書き出してみればいい。そこにはすぐに見つかるだろう。愛に満ちた寄木細工が。その人がいなかっただけで、全く成り立たない、こわれそうな寄木細工が。

果たして、僕はだれかのなくてはならない木の一片となり得ているのだろうか。僕にとっての、松下や、小島や、安藤や、池田さんや、倉沢さんのような

どれだけ感謝してもし足りないぐらいの、一片に。


今日の一曲
Road of the Sun 〜出会ってくれた全ての君へ〜

まっちゃん、たますけ、ありがとう。
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2007年05月20日(日) 横浜
3度目の、横浜でした。山野楽器インストア。

北海道物産展があると、条件反射的に呼ばれるようで、今回も控え室を出るとすぐに行列の波に飲まれました。

回を追うごとにお客さんが増えて行く。

一回目のライブ、予想を超える500人ほどの、ギャラリーができました。

神奈川は、老舗ですからね。どうらーの。10年選手もいるし、一年生も着々と増えつつある。底力をかいま見た。

しかし、ずっと家にこもってて、久しぶりに人前に出ると、これだもんな。

極端な生活。

逃げ出したくなる気持ちの、引っ込み思案なもも組の幼稚園児りょういち君が顔をのぞかせましたが、そんな自分が巡り巡ってこんな仕事をしている不思議を、しかと味わい尽くしたいという、前向きと取れなくもない衝動と、お客さんの愛のこもった拍手に支えられて、ステージに上がることができました。

ありがとう。いつもいつも。

みんながやる気なら、こっちも負けないぜ。

ずっと歌ったる。

今日の一曲
1/6の夢旅人2002神奈川バージョン
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2007年05月23日(水) 一滴増す
変換を間違えた訳ではありませんが、明日から北海道札幌に行ってきます。
池田聡さん、桜庭和さんとのコラボライブです。

結構一緒に演奏やるので、リハ含めてマエノリです。

いってかえってきた時に、自分の中の経験池の水量が、イッテキ分増していたらいいなあと、

思います。

こられる方、お楽しみに。

池田さんとのことから始まった、長い人脈大河ドラマは、先週8回にわたって書きましたが、あの直後に、僕のラジオ番組のゲストにきていただいて、目の前でありがとうございましたと、お礼を言わせていただきました。

何のことだかわからない顔満面でしたが。とにかく、ありがとうといいたかった。

だって、池田さんがいなかったら、あさっての札幌のライブもないですからね。僕にとって。

一滴増す機会を大事に歌わせていただきます。

今日の一曲
月の船 池田聡

2007年05月28日(月) 一滴増した
5/25の札幌、ザナドゥのライブ無事終わりました。

池田さん、桜庭君、石川さん、スタッフの皆さん、お客さん、お疲れさまでした。

2時間押し。すさまじい。

前日のリハのスタジオが、懐かしい、1/6の夢旅人2002の歌入れをやったスタジオだった。

第二期樋口了一の、スタートとなった場所だ。

桜庭君、池田さん、私の順で、キーの高さもはっきりしていたので、ハモの割り振りも、リードの分担もそんなに悩まずに決まって行った。

桜庭樋口で「ひとり言」

池田桜庭で「約束」  をそれぞれ共演。

20年の年月を経て、やっと会うことができた池田さんと私との共演曲は・・・

「ほのうた」

43才コンビで、ほのうた。

はにかみながらうたうほのうた。よそうどおり、いい感じだったと思う。

三人でやったのは、You've gotta friend,夜空ノムコウ、届かなかったラブレター

の三曲。

楽しかった。誰かとハモるって言うのは楽しいもんですね。

池田さんも、桜庭君も、ライブに対する情熱がすごい。

ギター抱えて、各地を転々。採算、費用対効果、労力対効果、以前に、目の前のお客さんに歌を届けたいという思い。

唄うたいの原点だ。

最近、この原点をだいじにするアーティストがまた増えてきたような気がする。

いいことだしうれしいしがんばんなきゃとおもう。

打ち上げが始まったのは、11時過ぎだった。

キャリアの長い池田さんの話は面白くて、気がつくと4時を回っていた。

またこのメンバーでやれたらいいな。

ありがとうございました。

今日の一曲
風の指輪 玉置浩二 
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